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寺尾紗穂 BLOOMING EASTリサーチレポート
第1回 キュックリッヒ

東東京を舞台に、アーティストが自身の興味関心をもとにさまざまな人に会い、さまざまな場所に赴き、リサーチをしていくプロジェクト「BLOOMING EAST」。

ミュージシャンで、文筆家の寺尾紗穂が、東東京の知られざる歴史や消えゆく声に耳を傾けるエッセー・シリーズです。




ゲルトルート・エリザベート・キュックリッヒというドイツ人宣教師の名前を聞いたのは、墨田聖書教会の石川牧師からだった。近くの鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)の中にあった向島教会に保育所があったという話の中でだった。キュックリッヒは戦後墨田を去る。けれどキュックリッヒを通じてキリスト教に目覚めた人たちがいた。キュックリッヒが墨田を去って、埼玉県の加須で戦災孤児たちの世話をするようになると、墨田の人びとは地元に教会を切望し、墨田聖書教会設立に至ったという。教会の設立がなされるほど、墨田に大きな足跡を残したキュックリッヒが来日したのは1922年。ドイツ人でありながら関東大震災と空襲による戦災のどちらをも経験し、さらに戦後加須でも福祉の道を歩んだ。78歳で生涯を終えるまで日本を離れなかった。

これだけでも十分に気になる存在だが、私が特に彼女の足跡をきちんと追ってみたい、と感じたのは彼女は教会や保育所に集う人びとから敬愛される存在でありながら、日本人の一部からは嫌がらせ行為も受けていたらしいということも石川牧師ご夫妻から伺ったからだった。もはや真偽は確かめようがないが、悪い噂や嫌がらせが起きる程度に、教会という場所は墨田において「よそ者」であったのかもしれない、とも思う。日本社会と「よそ者」との距離感、まして、アメリカによる空襲で焼け野原になった東東京の土地は、白人の外国人女性が歓迎される場所でなかったことは想像に難くない。彼女が加須で戦災孤児の面倒をみたというのも、あるいは追われるように場所を変えたのだろうか。最初はそんな疑問もあった。しかし、加須で今も社会福祉法人として続く『愛の泉』を訪れて関係者に話を聞くと、彼女の加須への移住の背景には向島教会に通っていた二人の熱心な信者の存在があった。

「岡安寿々(すず)さんと息子の正庫(しょうご)さん。僕が聞いたのは正庫さんというのがそういう気持のあった人で、二人とも向島で礼拝に行ってた人なのね。岡安さんというのは東京で会社をしていたけど、加須にも工場を持っていたから。それで正庫さんはキュックリッヒが幼児教育の専門家だから、加須で幼児教育をしてくれないかとお願いしたらしい。誰かが欠けても駄目だった」

そう話してくれた現在加須の愛泉幼児園園長を務める藤崎悦児(えつじ)さんは、キュックリッヒと共に向島教会に着任した藤崎五郎牧師の孫にあたる。キュックリッヒは牧師となる通常の宣教師ではなく、自らの賜物(たまもの)である得意分野を生かして、宣教に関わる宣教師として派遣されてきた。彼女の場合はそれが保育だった。

ドイツのシュトゥットゥガルトに1897年に生まれた彼女は、16歳のときにペスタロッチ・フレーベルハウスで保育を学び、その後猛勉強をして南ドイツ高等師範学校(現・教育大学)に入学する。福音教会の牧師だった父親の元に、北米の福音教会から娘さんを日本に派遣できないかという打診がきて、彼女の来日が実現した。福音教会自体は、アメリカへ移住したドイツ移民の子どもヤーコブ・アルブレヒトが創始者とされており、ドイツ人ながらアメリカの教会の依頼で日本に派遣される、という一見分かりにくい、キュックリッヒの経歴が生まれている。後に、日本の戦争が始まり、アメリカとは敵国、ドイツとは同盟国となると、彼女はドイツ人ゆえに残留を認められた(そうはいっても、河口湖の『富士ビューホテル』にドイツ人外交官らと共に軟禁される形になった)が、アメリカの福音教会からは援助が断ち切られ、教会は苦境に立たされたという。

悦児さんの話に出た岡安母子は向島教会で洗礼を受けている。『岡安ゴム株式会社』を経営していた彼らは鐘ヶ淵の教会の近くにあった工場のほかに、加須にも工場と宿舎を持っていた。息子の正庫は若いころから「恵まれぬ孤児やお年寄りのために家を建てたい」という夢を持っており、戦後孤児救済のために加須の工場にキュックリッヒを招聘したのだった。キュックリッヒ自身も、焼け野原の上野で孤児たちに出会っていた。

ある日、キュックリッヒは上野の地下道で数人の戦災孤児に囲まれ「チューインガム、チューインガム」と言われてボタンをむしり取られ、大切にしていた亡母の写真も取られたことがありました。その時キュックリッヒは「私は、失った母の写真のことを思って悲しんでいるが、あの子達は写真になる母さえいないではないか。この戦災孤児を集めてその母にならなきゃいけない」、と悲惨な戦禍の跡に群がる浮浪児にじっとしておれない想いが胸にこみ上げてきました。
(『G.E.キュックリッヒの生涯』社会福祉法人 愛の泉)

最初は工場の工員宿舎を使っての孤児院スタートだった。キュックッリヒが東武鉄道に乗って降り立った加須駅からは『岡安ゴム』の工場が見えたという。今では駅から徒歩20分の『愛の泉』までの道はほとんど住宅地になっており、とても遠くまで見渡せない。このとき、キュックリッヒとともに加須に移ったのは五郎牧師の6番目の子・愛香さんだった。1938年生まれの愛香さんは、母親が結核になり生後二カ月からキュックリヒを母親代わりに育っている。終戦時7歳だった。

「加須に着いて歩いていたら、おじいさんが菊の花を手折ってくれて、どこいくんですかって。それが嬉しくって歩いていったって。それで(『岡安ゴム』の)女工さんの宿舎に住み着いたわけです、私もそのときくっついてた。娘のように。女工さんの、2階八畳間が10くらいあって、東北から来たゴム工場の女工さんを住まわせてた。一つずつ部屋を占領して戦災孤児を(入れて)。浅草から東武伊勢崎線に乗った浮浪児は加須で降ろされたそうです。ここで降ろせ降ろせって降ろされて連れてこられた。年齢も分からない浮浪児が5、6人毎日着いて、警察に連れられてきた。で、子どもたちと一緒に食事もないのに食事をつくって、『東洋英和女学院』の卒業生が無料で住んで手伝っていた時代だったんです」

後に愛香さんは、五郎牧師の次に『愛泉教会』の牧師となった森田弘道に嫁ぎ、30代から『愛の泉』の乳児院での養育に携わってきた。戦後直後の戦災孤児支援に明け暮れたキュックリッヒのそばにいた貴重な証言者だ。『東京保育女学校』はその後『東洋英和』の保育科と統合し、キュックリッヒはここで教鞭も執っていたという関係があった。孤児たちを預かる場所ができた、という噂は広まり、赤ん坊を捨てざるを得ない母親が捨てにくることもあったという。

「預かってくれるんじゃないかって。それで、キュックリッヒが庭を歩くと、夜赤ちゃんの鳴き声がして、それで“大事なお子さんお預かりしまーす”と声にしたそうです。親は拾ってくれるかどうか、隠れて見ているそうです。それでゴム工場宿舎に帰ってきて、“神様からいただいた宝物です”とお名前つけてやったそうです。そういう話を何人も。赤ちゃんを拾って、あけると“やすこです、よろしくおねがいします”と書いてあったり」

わが子が拾われていく様を隠れて見届けた母親はさぞほっとしたのではないだろうか。どこの誰に拾われるかわからない道端に捨てるよりも、ここに来ればもしかしたらこれからも成長したわが子の顔を見れるかもしれない、そういうかすかな希望もあったに違いない。愛香さんによれば、ある夏に東武伊勢崎線大袋駅の“ボットン便所”に産み落とされた赤ん坊が、駅員によって救出されて、児童相談所を通じて『愛の泉』に送られ、「大袋夏子(おおぶくろなつこ)」と名づけられたという。すくすく育った夏子はやがてある家庭にもらわれていった。よく覚えてるのよ、と愛香さんは回想する。生まれた命を育てる余裕はなく、目の前の生活を生きることに追われた女性たちが続出した戦後の混乱期、加須に生まれた『愛の泉』は確かに女たちの希望だった。

『愛の泉』を見学させてもらって驚くのは、乳児院、児童養護施設、学童の施設、保育所が同じ敷地内にあることだ。少し離れた場所には、特別養護老人ホームと養護老人ホームがある。どこの施設も入るとキュックリッヒの写真が正面に飾られている。児童養護施設建設をめぐって住民の反対が取り沙汰された青山の件などを思うにつけ、このように普通の幼児が通う園や学童の施設と養護施設や乳児院とが、教会を擁する一つの敷地にあることのさりげなさと尊さを思う。ゆりかごから墓場まで、を体現したような社会福祉法人だが、老人施設については戦後のキュックリッヒの尽力があり、1958年に設立認可されている。このときキュックリッヒ60歳、人生の後半生も異国で福祉の道を切り開き続けた女性がいたということに驚く。同時にこの計画も米国の教会本部からの援助金2500ドルがなければ叶わなかったものであり、キリスト教についてのイメージや意見というものは人によってさまざまであろうけれど、日本の近代福祉においては欠かせない役割を担ってきたこと、そうした遺産が今なおこの社会に多く残されているということにも気づかされる。

私の曽祖父・寺尾豊の兄、白石多幸はプロテスタントの牧師であった。高知に生まれ、同志社に学び、鳥取、アメリカ、旭川へ赴任、戦後は吉祥寺で幼稚園を開いた。もちろん会ったこともないし、だからという事でもないのだが、ずっと近代日本に関わったキリスト教のことが気になっていた。例えば、私が学生時代に出会った山谷という日雇い労働者たちが暮らしてきた街でも、老いつつある彼らを支えているのはキリスト教系団体が目立つ。今でこそ、若手僧侶の中に慈善活動に取り組む気概ある人びとの活動が目立ってきたし、個人レベルで頑張っていたお寺などはあるのだろうけれど、キリスト教がなしたほどの大きな動きは見られなかったのではないか。

私がキュックリッヒのことを追ってみたいと思ったのは、一つには彼女を軸にして、戦前戦後のキリスト教と日本の関係を考えるきっかけになるのではないか、と思ったこと。それから、彼女が、戦災孤児という、戦後史の中で半ばその存在を忘れられていた子どもたちとともに戦後の混乱期を生きたということだった。そこには日本人だけでなく、米兵との間に生まれた混血児の存在も混じってくる。

東東京という意味では、キュックリッヒや五郎牧師のいた向島教会は、鐘ヶ淵にあった『鐘紡(かねぼう)』の敷地内に建設されたという経緯があった。そして『鐘紡』とキリスト教との関係はキュックリッヒ以前に日本に派遣されていたバーンファインドという宣教師にまでさかのぼる。彼女は女工たちにギターで讃美歌を教え、交流を深めた。『鐘紡』はなぜ女工たちに対してキリスト教に触れさせようとしたのか、当時の紡績工場の現場とはどのようなものだったのか。

『カネボウ株式会社』は2007年に解散し、本社は『クラシエ』など他社に吸収され、化粧品部門は『花王』の子会社となった。今、鐘ヶ淵を歩くとかつての『カネボウ』の敷地には『花王』と書かれた建物が建っている。結果的に『鐘紡百年史』という社史以外、“カネボウ史”をひもとく入り口はなく、ここにはバーンファインドやキュックリッヒの名前は出てこない。『鐘紡』敷地内でキュックリッヒが暮らしていた洋館も2005年ごろまでは存在して、集会所としてたまに使われてきたというが、現在は取り壊された。『カネボウ株式会社』創業の地の石碑がある公園にも、キリスト教とのかかわりを示すものは何もない。しかし、ここにはかつて、バーンファインドと女工たちの交流があり、女工や社員が利用できる保育所にキュックリッヒがおり、向島教会に赴任した藤崎五郎牧師一家が暮らしていた。加須の『愛の泉』に移されたキュックリッヒの功績が目に見える形で存続しているとすれば、鐘ヶ淵のそれはまったく地中に埋もれてしまっている。しかしここを掘り起こすことは、戦前のキリスト教と日本企業の関係、実は戦後まで受け継がれる『カネボウ』の女工たちとキリスト教の交流などにも触れる興味深い作業にもなる。

「『愛の泉』も戦後生まれた施設だし、あなたが書いたものを読んで新しい発見になるようなことがあるかもしれない。向島のことはこちらはあまりわからない。昔のことが分かるようなことがあるような気がする。僕の父もまだ生きていて話はできるから」
悦児さんの言葉に背中を押されるように、キュックリッヒと藤崎家、向島と加須をめぐるリサーチが始まった。

  • 寺尾 紗穂

    1981年11月7日生まれ。東京出身。大学時代に結成したバンドThousands Birdies' Legsでボーカル、作詞作曲を務める傍ら、弾き語りの活動を始める。2007年ピアノ弾き語りによるメジャーデビューアルバム「御身」が各方面で話題になり,坂本龍一や大貫妙子らから賛辞が寄せられる。大林宣彦監督作品「転校生 さよならあなた」の主題歌を担当した他、 CM、エッセイの分野でも活躍中。2014年11月公開の安藤桃子監督作品「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)に主題歌を提供している。2009年よりビッグイシューサポートライブ「りんりんふぇす」を主催。10年続けることを目標に取り組んでいる。著書に「評伝 川島芳子」(文春新書)「愛し、日々」(天然文庫)「原発労働者」(講談社現代文庫)「南洋と私」(リトルモア)がある。