雨、それは命を育み文化を育む、水循環の源

隅田川自治β ダイヤローグ①
村瀬 誠(あまみず博士)

私たちの生活に欠かせない水。その水はどこからきて、どこへ還るのか。元墨田区職員で、洪水防止と水資源の観点から雨水利用に着目し、国技館の雨水利用プロジェクトをきっかけに日本に雨水利用を広めた村瀬誠さん。墨田区を退職後、バングラデシュで雨を活かして生命を救う天水活用ソーシャルプロジェクトも推進しています。そんな村瀬さんから、隅田川流域で活かすことのできる私たちと水と雨のあり方について語っていただきました。

1976年から2009年まで墨田区職員として勤務してきました。職員になったきっかけは、当時、石油ショックや公害問題が大きな社会現象となっていた頃で、大学で薬学を研究していた身として、役人となって環境問題で世の中の役に立てないかと考えたからでした。私が入所した時代は、地方自治法の改正で東京都特別区制度が施行され区長公選制が復活するなど、墨田区としての自立性がつくられ始めた頃でした。例えば、それ以前は、保健所は東京都の管轄でしたが、墨田区の保健所になりました。そうした地域との近い距離感で関わっていたからこそ、その後の雨水利用に携わることができた人生だったと、今振り返ってみても思います。

私は長年にわたって保健所や環境保全行政に関わってきましたが、そこで身につけた仕事の流儀があります。その第一が感性を高めて環境からのサインをキャッチすること。第二は、その環境サインを自然と社会の両面から問題の本質に迫ること。そして第三は、そこから総合的な解決策を導き出していくことです。今でもこれを意識的にやっています。私は、これを『保健環境力』と呼んでいます。

具体的な話をさせてください。1981年、今から約40年前、墨田区の錦糸町・両国あたりは大雨のたびに洪水になり、排泄物が混じった下水が逆流し浸水被害が相次いでいました。私は保健所で環境衛生監視員の業務に携わっていて、伝染病対策として消毒指導に追われていました。その年は3回も洪水被害が出て、「消毒の指導もいいが、洪水なんとかならないか」という住民の悲痛な叫びに私は何とか応えたいと思い、担当部局の垣根を越えた自主研究グループを組織し、洪水の原因を探ることにしました。

当初は、下水が逆流するので問題は下水道にあると考えていました。しかし、本質は下水道のシステムではなく、都市のコンクリート化でした。つまり、都市化に伴いコンクリートやアスファルトによって地面が覆われたことで、地面にしみこめなくなった雨水が一挙に下水道に押し寄せ、さばききれなくなった下水が逆流していたのです。それなら、発想を転換して雨水を下水道に流すのではなく、その場でためればいいのではないか。これがたどりついた都市型洪水の処方箋でした。

写真:都市型洪水

当時、東京では夏になると渇水騒動があり、信濃川の水を利根川に引いてくる話まで持ち上がっていました。中国の故事成句に「飲水思源」があります。水を飲むときその源に思いを馳せ、感謝するという意味です。私は上流のダムを訪ね、東京で使われる水道水の一滴が水没した村人たちの涙の一滴であることを知った時、これからの東京は「水が足りなければ上流にもっとダムを」と安易に考えるのではなく、徹底した節水や雨水や地下水などの自前の水源で、できる限り水源の自立を目指すべきではないかと強く思いました。

実は、年間に使われる水道水の量をはるかに上回る雨が東京に降っていたのです。しかし、それまでの東京は雨を活かすことなく下水に捨ててきました。都内の戸建て住宅150万戸の屋根に降った雨をすべて集めたとしたら、その量たるや上流の巨大なダム1個分に匹敵するではありませんか!それは、目から鱗でした。かくしてできた洪水と渇水を総合的に解決するキーワードが「流せば洪水、ためれば資源」でした。

雨をためれば洪水防止に、ためた雨水は日常的に草木の水やりやトイレ、洗車、打ち水、そして冷房に使えます。大地震で水道が止まった時、飲料水や生活用水にも活用できます。これが総合的な雨水利用の考え方です。私はこれを、ちょうど両国駅前に建設の話が持ち上がっていた新国技館に導入したらどうかと考えました。8千4百平方メートルの大屋根に降った雨をためれば両国駅前の都市型洪水防止につながりますし、千トンのタンクにためた大量の雨水は相撲興行時のトイレや冷房に有効利用できます。

また、両国地区はかつて関東大震災で甚大な被害を受けたことから、防災拠点地区に指定されていましたので、ためた雨水は防災用水にも活用できます。私は保健所の環境衛生監視員として相撲を許可する立場にありましたので、雨水タンクの話を日本相撲協会に持ち掛けました。しかし、大規模な雨水タンクの建設は前例がないことや法的な根拠がないことを理由に、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。一度は挫折しかけたのですが、当時の上司や墨田区長が私の提案に理解を示し応援してくれたこともあり、最終的には墨田区長が日本相撲協会春日野理事長に新国技館への雨水利用の導入を申し入れ、当時ではアジア屈指の雨水利用施設が誕生しました。

その後、私は墨田区で日本初の雨水利用係長という役職に就き、区の雨水利用に関する推進指針や助成金制度、条例の制定など、退職まで異動することなく雨水利用のプロジェクトに関わりました。とても幸せな役人人生でした。墨田区役所に感謝の気持ちでいっぱいです。

新国技館の雨水利用の実現をきっかけに、雨水利用の波が役所から地域に広がっていきました。それが墨田区向島地区の「路地尊」です。向島地区は震災や空襲で焼け残ったのですが、木造家屋が密集していているうえに路地が狭く消防車が入れないため、いったん火が付くと延焼が免れません。しかしその路地は避難路にもなります。路地尊は、路地を大切にしながら自分たちの手で街を守るという防災まちづくりのシンボルとして誕生しました。

私はこれを見た時、江戸時代の天水桶にそっくりだったので、ここに雨水タンクを設置し雨水を集めれば日々の生活用水として、災害時には火消しや飲み水として地域ぐるみで使えると考えました。そこで、路地尊の仕掛け人だった徳永暢男さん、通称徳さんに路地尊の雨水利用の話を持ちかけると、徳さんが早速雨水タンクをもった路地尊の模型を製作するやそれがたちまち地域の話題となり、しまいには路地尊雨水タンクを埋め込むための土地を提供してくれる人まで現れてきて、雨水タンクを持った路地尊の設置が実現しました。区も後押ししました。路地尊の雨水利用システムは、路地に隣接した家屋の屋根に降った雨水を3トンから10トンほどの地下タンクに貯水し、手押しポンプで水をくみ出す仕組みになっています。

現在、墨田区内には21基の路地尊があります。なかでもユニークなのが「有季園」と呼ばれる路地尊です。ここは、避難広場を兼ねたポケットパークですが、地域の人たちの家庭菜園で交流の場にもなっています。隣接のビルの屋根から雨を集め、それで区画整理された畑で野菜を育て、いざというときには防災用水にも活用します。有季園のような取り組みが隅田川流域に広がっていけば、地域における水と食の防災自立の向上につながるのではないでしょうか。

ともあれ、路地尊が契機となって区と区民の雨水利用ネットワークができ、その輪が区内外に広がり、とうとう1994年には世界初の市民主体の「雨水利用東京国際会議」が区と共催で実現することになりました。私は実行委員会の事務局長を務めました。“雨水利用は地球を救う―雨と都市の共生を求めて”をテーマに墨田区で開催された会議には、世界18カ国から研究者やNGOの代表も含め、延べ約8,000人が参加しました。この成果を受け、国際会議を成功させた実行委員会のメンバーが中心になり、翌年にはNPO雨水市民の会が設立され、私は初代事務局長になりました。徳さんは、同会の副会長を務めるとともに、家庭用の雨水タンク「天水尊」を開発し、タンク屋さんになりました。天水尊は、阪神淡路大震災で神戸市において水道が一ヶ月近く断水した時、大活躍しました。

写真:(上)路地尊の雨水利用、(下)天水尊と徳さん

東京スカイツリーの雨水利用は、行政職員としての最後の仕事となりました。ここの雨水利用システムは、気候変動に対応したデザインになっています。地上350平方メートルと450平方メートルの展望ロビーや、お隣のソラマチビルなどの屋根から雨水を2650トンの地下タンクに貯留し押上・業平地区の洪水を防止する一方、ためた雨水を主に屋上の緑化に活用しています。墨田区は雨水利用の施設数が730を超えるまでになりました。墨田区はかつての”Drain City”(雨を排除するまち)から”Rain City”(雨と共生するまち)に大きく一歩踏み出したといえるのではないでしょうか。

東京都庁や東京ドーム、東京オリンピックスタジアムなど、都内でも1000を超えるビルで雨水利用を行っています。また甲子園や大阪駅など、今や日本では雨水利用施設が珍しくなくなりました。2014年には雨水利用を推進する法律もできました。私が雨水利用に取り組み始めたころはまだ小さな波にすぎませんでしたが、それが長い年月をかけて怒涛の波となり全国、そして世界に広がりつつあるように思います。

私は墨田区を退職後、住まいを富士山のふもとの静岡県御殿場市に移し、妻と農業を始めました。もう10年になります。昨今の異常気象を考えると、大洪水や大渇水でいつ海外から食料が入ってこなくなってもおかしくありません。今や日本の食糧自給率はカロリーベースで37パーセント、年々減少するばかりです。そこで、まずはできることから始めよう、自分が食べる米や野菜ぐらいは自分で作り、余ったら子や孫にもおすそ分けしようと決意し始めた農業ですが、雨の見方が根本から変わりました。

まず、”雨水利用”という言葉に少し違和感を覚えるようになりました。都会の感覚では雨をモノとして捉え、雨水利用といえば水がいくら節約できたか、水道代がいくらもうかったか、といった損得勘定になりがちです。ですから、おしめり程度の1ミリの雨にはほとんど関心の目が向きません。しかしたった1mmの雨で畑全体が潤い、実りをもたらすのです。1ヘクタールに1ミリといっても水量にすれば10トン、なんとバスタブにして50杯分の水に匹敵します。10トンの水を畑へ均等にまくなんて人間には不可能ですが、雨はそれをやってのけています。まるで空に如雨露(じょうろ)があるようです。雨が待ち遠しくなり空を仰ぐ機会が増えました。今では、一粒の雨にも心から感謝するようになり、雨水を”Rain Water”ではなく、天からの恵み、すなわち”Sky Water”として捉えるようになりました。

もっとも、バケツをひっくり返したような雨は困りものです。土や肥料が流れ出てしまいます。降らなくても困るし、降りすぎても困る。五日に一度適度な風が吹き、十日に一度適度な雨が降れば豊かな実りが約束される、「五風十雨」と昔の人はよく言ったものだと温故知新の意味をかみしめています。農業をやってみて五風十雨を心から納得し、異常気象にも敏感になりました。東京で暮らしていると便利な暮らしに慣れきってしまい、東京の街が大地と空の間を循環する雨によって活かされていることを忘れがちです。東京スカイツリーの展望ロビーから東京の街全体を俯瞰すると、まず足元には隅田川の曲がりくねった流れが目に飛び込んできます。そして近くの周りを見渡すと皇居の森や上野の森が見え、富士山の方に目を向けると、新宿の先には緑の回廊がかろうじて見えてきます。実は、これらはすべて東京の水循環がつくり出したものなのです。

東京は、非常におおざっぱな言い方をすれば、武蔵野台地と下町の低地に分けられます。武蔵野台地は、海抜180メートルに位置する青梅あたりから埼玉方面に向かって東に南下する広大な大地ですが、武蔵野台地に降った雨は地下に浸透しやすく、しみ込んだ雨は海抜50メートルに位置する吉祥寺あたりの南北上で湧き水となって噴出するようになっています。それでできたのが井の頭の池、善福寺池及び石神井池です。これらの池は、井の頭池が神田川、善福寺池が善福寺川、そして石神井池が石神井川といったように都内の主な中小河川の水源になっており、これらの川が東京の水の軸線を形成しているのです。今でもこの水循環はかろうじて生きています。ちなみに、皇居のお濠も上野の不忍の池も武蔵野台地の水循環がもたらしたもので、これらは武蔵野台地の雨の終着駅といえるでしょう。

隅田川の下流では神田川が、上流では石神井川が合流しています。つまり、隅田川は武蔵野台地の水循環の終着駅なのです。戦後高度成長の時代、隅田川流域の住宅も工場も廃水を垂れ流した結果、隅田川はドブ川化しましたが、流域に下水道が普及したおかげで随分きれいになりました。しかし、かつてのような清流にはなっていません。下水処理にも限界があるからです。隅田川に本物の清流を取り戻していくには、隅田川に流入する河川に豊かな流れを取り戻していくしかないと思います。非常に長い年月がかかるかもしれませんが、武蔵野台地にダイナミックな水循環を取り戻すことで、かつてのように井の頭池、善福寺池、石神井池に昏々と水が湧き出すようになれば、隅田川に本物の清流を取り戻すことができるのではないでしょうか。そういう意味では隅田川は、東京の水循環の”水鏡”になるように思います。今後、隅田川怒涛の取り組みが東京の水循環再生につながることを期待しています。

図:武蔵野台地と下町低地

東京スカイツリー上空の空は、世界のスカイにつながっています。秋に豊かな稲の実りを約束してくれる梅雨のもとの雲は、バングラデシュ方面からやってきます。日本が世界的にも雨に恵まれているのは、バングラデシュやインドのおかげです。ならば、同じモンスーンアジアの仲間として、深刻な飲み水に直面しているバングラデシュに手を差し伸べたい。そんな思いから、雨を活かして安全な飲み水を供給するソーシャルプロジェクトに取り組んで20年近くになります。

バングラデシュの沿岸地域の農村は水道がなく、今でも毎日1キロ以上遠く離れた池まで水を汲みに行かなくてはいけません。女性や子供にとって大変な重労働です。しかもその池は清浄ではなく、子どもが下痢で命を落とすことも珍しくありません。地下水のヒ素汚染も深刻です。おまけに気候変動の影響で海水面が上昇して海水が遡上し、池や地下水の塩害が進行しています。こうした問題を解決するには、日本の高度な水処理技術を駆使すれば解決できるのですが、その設備の設置や管理に膨大な費用がかかるので、多くの貧困層をかかえるこの国では導入は極めて困難です。そこで、私は天水(あまみず)を活かしてバングラデシュの飲み水の危機を解決しようと考えました。

なぜ天水かといえば、バングラデシュは年間平均降水量が2,000ミリを超え、雨にとても恵まれた地域だからです。天水はタダだし、貧しい人のところにも金持ちの人のところにも分け隔てなく降ってくれます。天水は森や海の水が太陽の熱で蒸発してできたもので、いわば蒸留水です。ヒ素や塩分をほとんど含まず、下痢を引きおこすような病原菌の汚染もほとんどありません。川や池の水に比べても水溶性の汚れは1桁少なく、とてもきれいです。江戸時代において「養生訓」を著した医者の貝原益軒は「天よりすぐに下る雨水は性よし、毒なし。器にうけて薬と茶や薬を煎ずりによし」としていますし、オーストラリアやアメリカ、メキシコなどでは雨水をボトルにして売られています。

実は、バングラデシュの農村では昔から雨水をモトカという甕(かめ)にためて飲んできました。甕は安いので貧しい人でも購入できましたが、モトカにためられる水量はたかがしれているので、乾季には空になり遠く離れた池に水を汲みに行くしかありませんでした。またモトカは素材が素焼きで割れやすいという問題もありました。ならば、安価で容量が大きく、かつ丈夫な雨水タンクをつくればいいのではないかと考え、タイからジャイアントジャーの技術移転を図り、いろいろ試行錯誤を重ね開発にこぎつけました。これにはJICAが後押しをしてくれました。完成したタンクを天からの恵みに感謝の気持ちを込めて「AMAMIZU」と命名しました。容量は1トン、フェロセメント製です。2011年に生産工場を開設しタンクの販売、設置のパイロットプロジェクトを立ち上げました。寄付だけに頼っていては事業が長続きしないので、2013年にはSkywater Bangladeshという現地法人を設立、身の丈大で地域の雇用も生み出しながらセルフファンディングしていく、ソーシャルビジネスの手法を取り入れ事業を展開しています。タンクのうわさは口コミで広まり、これまでに4600基が設置され、多くの村人から「水汲みが大幅に軽減された」「下痢が止まって医療費が節約できた」といううれしい知らせが届いており、AMAMIZUはバングラデシュの飲み水の危機打開に大きく貢献しています。将来、バングラデシュの沿岸地域であちこちに雨水村が誕生し、雨をためて生命を守ることが当たり前な社会が実現すればどんなにすばらしいでしょう。

地球の人口増加が止まりません。2050年には世界の人口は90億人を超えると想定されており、近い将来、水と食をめぐって世界での争いが危惧されています。また、大量生産、大量消費の生活が地球規模でもっと広がれば、結果として膨大な廃棄物が発生し、世界の川や湖や地下水の汚染は深刻な状況となり、安全な飲み水を得ることは極めて困難になり、最後に人類に残された安全な飲み水の水源は天水になるかもしれません。アフリカのボツワナの貨幣の単位はプラです。プラは雨という意味です。それは、この国の年間降水量が200ミリ以下で、雨がとてもかけがえのないものだからです。そして、プラにはもう一つ大切な意味があります。それは平和です。世界の空はつながっています。世界中で天水を分かち合い、もっと有効に、もっと大切して、世界を平和でハッピーにしたいと思います。
“No More Tanks for War, Tanks for Peace!”.

取材:清宮陵一、小出有華(NPO法人トッピングイースト)、編集:江口晋太朗(TOKYObeta.Ltd)
カバー写真:革新的雨水利用でロレックス賞を受賞した村瀬誠さん ©Rolex award

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村瀬 誠
通称あまみず博士(世界ではDr. Sky Water)。
元墨田区職員。1994年雨水利用東京国際会議実行委員会事務局長、株式会社天水研究所代表取締役、NPO法人雨水市民の会理事、バングラデシュ現地法人Skywater Bangladesh会長。2002年「革新的雨水利用」でロレックス賞受賞、主な著書に『雨を活かす』(岩波アクティブ新書)など。1996年雨水利用の研究などで学位取得(博士薬学)。